昭和47年12月04日 朝の御理解



 御理解 第91節
 「もとをとって道を開く者は、あられぬ行をするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」

 もとをとって道を開く者は、あられぬ行をするけれども、後々の者は、みやすうおかげを受けられる。そのところをですね、親が苦労し子が楽をすると言ういみではないのですねその方は。そう言う事に安易な事致しますと、親が苦労し子が楽をする孫乞食と言った様な結果になっとります。その辺のところをね( ? )頂かなければならない。ならどう言う事かと言うと、もとを取られた方。いうならば教祖金光大神が、金光教のいわば元を取って下さっておる。天地金の神様のおかげを私共受けられるようになった。
 お取次ぎのおかげを頂いておかげを受けられるようになった。だからただ自分の都合のよか時だけお参りをして、お取次ぎを頂く只おかげを頂くという、そういう安易なものではないのですね。いわゆるそのきらぶきかいと言われる、金光大神、教祖生神金光大神に全幅的の信頼と申しましょうか。教祖金光大神取り次ぐところの帰依ね、その帰依が出来てからのものでなければならない。
 生神金光大神に帰依をすると言う事は、教祖金光大神を頂くと言う事。今でもそれをどうとかすると無条件に頂くと言う事なんです。ですから無条件に頂けれるまでが、私は成程元を取って道を開く者は、例えばあられぬ行を致しますよね。次にきのう親教会の教祖大祭でございましたから、こっからも沢山参拝のおかげを頂きました。お祭りでの会長は宮の陣教会の松尾先生でした、あちらの若先生です。あちらは皆さん御承知の様に花畑教会から養子に見えておられるわけです。
 ( ? )ところへ、でもう今泉教会の先生、女の先生でもうそれこそもう本当に根性のしっかりした方なんです。もう若ぁい時からもう独身で、そしてあれだけの道を開かれた、あの付近界隈でその時若先生のお取次ぎを頂いて助かったのが、どれだけあるか分からんと言われる位に助かっておる。なら若先生が久留米の教会で修行をなさって、あのう宮の陣教会に出られた時などはもう、それっこそもう何んっにもない所、もういうならば( ? )変わられた、そういう中でですね。そこで修行しとられます。
 まず蚊帳をひくなんて、もう蚊帳をひくことをそん時の( ? )と思えば、蚊帳の中にどん入って寝てからと、言う風に言わっしゃる分け。そのためにやはりあられぬ行ですね。まぁだ私どん知らぬどれほどに修行なさったかどうか分りませんけどもです、なら代を継がれるその松尾先生に対してどういうなら修行なさったかと。元を取って道を開く者はあられぬ行をする。だから親と同んなじ様な修行しようとは思わぬ。
 けれどもここの( ? )から来たからにはやはり土台になるからにはです。ここのところぐらいは出来なければいけないぞと言う所で。その師匠を見てそこからおのずとして下さると、そのやかましく仰る。( ? )のお祭りだったらええ様な人があちらに( ? )に養子に行った。まぁあちらで盛大な結婚式があって、その晩は大変もう飲んで酔って、もうぐでんぐでんになってござる( ? )。そっでまぁ少し甘えもあって明くる朝の朝のご祈念に出られなかった。
 で( ? )親先生が二階に上がって来てから、布団を引っ張ってから( ? )( ? )( ? )。もう布団を( ? )剥がされたのと自分が離したのと一緒でした。そして今でもそれを思うて、こりゃぁ一筋縄ではいかんばいこの( ? )。それが( ? )ぐずぐずしよったっちゃでけんと、成程この教会からにゃこの先生の信心に付いて行かなきゃならんと、先生が信心を頂かなければならんと、思うたと話せなかったごたる。今日私が修行と( ? )( ? )せん。
 奥さんも言うなら取り子取り嫁と言うとこなんですね。でなかなか先生私が若い時に修行した修行がある( ? )しようとは思わない。けれどもこれがどの様な事があっても、朝のご祈念にここに五代を継ぐ者が御無礼して、出て来んてんなんてん言う様な事があってよかろうはずはないではないかと言う事をです、もうとっこの下の段に教えられた。しかしえらいですね( ? )聞いてから、えらいなぁと思うてですね。
 ( ? )親先生もない( ? )いわゆる( ? )ない。いまの阿倍野の教会の先生の話をこう聞いての、御本をもう2回通り読ませて頂きましたが。その中にも出てくるですね、あちらの若先生が( ? )頃から( ? )帰って見えた、そして( ? )もう長い間難儀された、けれどもその長い間( ? )若先生の( ? )( ? )から親先生が坐られた。
 あなた見とるだけじゃ出来んよと、教会の例えば二代を継ぐあんたがね、それこそ這うてでもよい、例えば( ? )に座ってからでもよいから出させてせて頂いて、どうぞ先生のご様でもさしてもらわなければおかげにゃならんよ。と言いうて仰ったという。それが出来るまで。だからそんな事じゃお徳を頂かにゃ言える事じゃないです。宮の陣と言い。今の若先生というて女の先生ですよ。しかもそのお伺いする時にですね、いわゆる長い間信心しとられる、夜中に起きて来たから起きろと仰った。
 だからもともと( ? )が御用をさしてもらう。こっちの御用が出来んならば( ? )ていわば( ? )というわけなんです。それから起き上がられたそうですけれども、そのまま( ? )のおかげを頂かれたと言う話があります。親先生の言われる事はやっと無理はない間違いはないとわからせられるところまでは、だからここんところをねみやすうおかげが受けられると言う事はですね。
 その親先生に対する帰依して、出来るところまでは親も鍛えるならば、子供も鍛えられるところの信心がなされて初めておかげを頂く。もう金光様の御信心をお取次ぎを頂いておかげを頂き道じゃから、教祖様がもうそれこそあられぬ行をしておって下さるから。私共は楽ぅにおかげを受けられると言うその、楽ぅにおかげが受けられると言う事は、教祖金光大神に帰依すると言うことはね、もういうならば心も生命も改まらせと言う事になるわけです。だからそれまでが私信心だと思うですね。
 例えばならあの若先生であっても、阿倍野の若先生であってもです、なるほど親先生は難しい事言われる、けれどもね親先生任せになってゆけばおかげが受けられると言うなものをです。私はあのうかんで( ? )頂けて親先生に一辺倒にですね。親先生に任せきられるというところからです、なるほど親先生が辿られたような、火の出る様な修行せんでもです、なるほどそこからみやすうおかげが受けられると言う道なんです。
 だからこの辺の所が間違いがあってね、いかにも( ? )は安全であるかとと言った様な事ないけれども。そのいわゆる教祖生神金光大神に帰依をする。自分の頂いておるお取次ぎを願うその先生に、帰依できるところまでは信じ信じられる仲まではです、信心を進め重ねていかなければならない。そこには神様の願いというものがです、やはり厳し迄に昨日の御理解は借りるならばです、神様が御期待を下さるその御期待に、ひとつ鍛えられようと言う私達じゃないでしょうかね。
 御教えを頂いたその翌日から朝のご祈念に叩き起こされて、よしこの先生に信心を頂こうと思うたと。( ? )( ? )と話されました。あの本を読ませて頂いたり阿倍野の先生のお話を頂く。( ? )お徳を受けられあれだけの御比礼を輝かせるように、先生の所へどうも( ? )の想像を絶する修行を見せつけられる。今若先生の取り組む安気安穏に暮らさして頂いてると言う事ではなくて、例えばなら( ? )( ? )信心して誰もかれもと言って。
 あんたはそりゃ悩むのだからと言うてそれの甘えて見とったっちゃおかげ頂かんから、起きてて御用しない、だからごそごそ這うてからでもよいから、少うし位出さして頂きなさい。それで太刀雄上がられた起き上がられたられた。さしもの若先生も遠大なおかげを頂いたと言われる。私にも生けるものそこに一つの心が通う、いわゆるいつも通うところがです大事なんです。そこからがみやすいのです。もう( ? )金光大神に帰依、なら私共のおかげで私の場合でもそうです。
 もうこれは14,5年も前だったでしょうか。子供たちがならおかげを頂いて、高校でこりゃうちの子供達にゃ厳しい( ? )修行にでもだそうかなぁと私が思うた。そこで神様からあのうその当時椛目から、あのう善道寺の親教会参拝途中でしたが、神様がしきりにあのうこう、善道寺のよくあのう今あそこは何というか、あのう( ? )の酒屋さんが出来たですね。あそこのちょうど前でした、あのう( ? )学校の( ? )見えよる段々。この耳納連山の頂上をずっうっと歩いて行くところを頂いた。
 言うならばこれを願わんもんの頂上にこう極めるためには、下からそれこそ汗水流してあのう私は登らせなければ、一遍そういう修行くらいしなけりゃいけないんじゃないだろうかと。教会の子弟からいうとです。いわゆる二代をつぐ若先生だからというて、安気安穏じゃいくまい、厳しいとに修行にもどもやろうかと思うたら神様がうつる。下から登せると言う様なそういう事は必要ではないけれども、この教祖を握ったよね、間違いなく歩いただけは歩かせろという御理解でした。
 そういうなんならばね、それこそ火の出る様な修行と、言った様なね嵐の時に引き上げて出らして頂いたら。それこそ今日もお参りがない明日もお参りが無いと、先日から熊本のいや鹿児島の安武先生が御礼に出てきてましたが、とにかく3日くらい誰ぁれもお参りしてこん。もう一生懸命という御祈念さしてもらい、御結界に奉仕をする。夜も眠らんで御結界で布団をかぶってそんな修行する。先生その修業がこの頃だんだん嬉しく有り難くなってきたとこう言うとられます。
 けれども間違いがない事はです、親教会にお礼参拝ご本部にお礼参拝という時にゃ、その( ? )時ゃもう立派に間違いなく、( ? )時にゃ恐れ入りますと言うてお礼を言うとります。ですから合楽の( ? )でるならばです。やはり元を取って道を開くんですから、そのあられぬ行もまた楽しゅう厳しゅうさして頂かなくちゃならんのですけれども。ならここでなら皆さんがお取次ぎを頂いておかげを頂くと言うたら、お願いした安武先生が修行して見えとるけん、修行せんでええと言う事にはならないのです。
 せめて朝参りも出来なければおかげ頂ける筈ないですよね。そうでしょうが。お日参りに一つ出来なければおかげ頂くはずないです。( ? )( ? )まいっとって( ? )おかげ頂きますよ。そりゃ半年に1っ辺しか参ってこんでもおかげを頂きますよお願いをして。なるほどそれじゃいけないけれども、それではねめぐる自身が本当に取り戻して頂くと、自分自身の心が助かると言う事。しかも人が助けられるほどしの心の状態と言う様なものは、そんなことからは生れて来ません。
 人が昨日の御理解はそうでした。人が助けられると言う事は有り難いと心得て、信心しなさい。そういう信心。断食をしたりさぁもそれこそ、火の行水の行をてにしなければならんと言う事ではない。けれどもそうやって教え( ? )てそのお日参りとてもです、もうそれは生活の中に溶け込んだ、もう当たり前の事としての信心修業が出来なければいけない。例えばね12,3のいわば新聞少年ですら、ちょっと新聞配達をするからには、それこそ( ? )に朝は何時に起きてから、いわば暑かろうが寒かろうが、( ? )( ? )ぐらい知らんという。
 朝は朝参りぐらいしよることがですね、なんかその機嫌悪うあのう子供を( ? )させたりなんていう様な事は、( ? )ね。あの世この世をかけてもおかげを頂かせてもらおう。心に本当にいつも喜びをなら光を頂かしてもらう筈と言う様な、信心なのですから、宮の陣の( ? )先生の場合でもここだけは回って行かなければならない。( ? )の頂上を親先生が極めた、なら極めたその頂上だけはその歩かしてもらう。そういう( ? )でおかげ。
 例えば私の方はなら布団を引っ剥がないかんようなことはないということ。皆さんもあの御承知の様に、破傷風でもうそれこそ這いも立ても出来らず、もう男泣きに泣きよる考えたら、もう( ? )にもかかわらず、それを思い切って御神米を頂いておかげを受けた。( ? )的に青年教師からここでお願いしたらです、若先生( ? )( ? )てからです、そんなら朝の5時のご祈念にいつも出て来ませんというてからもうほとほと感心しましてね。
 いわゆる御祈念にちょいと楽にしてござるばってから、やっぱり気張る時は気張っちゃるなと言った様なものを与えたようです。皆さんだってそうだったと思うです。それこそもう朝を起るが新婚それこそ初夜の明くる朝から、やっぱりちゃっと御祈念だけは務めとります。いわゆる( ? )いっぱいぐらい、いわゆる( ? )の御用だけはこうやっておかげを頂いて段々歩かせて頂いておると言う事なんです。
 それはどう言う事かと言うと弱気の信心親先生の信心にいうならば、もう寄与していると言う事が、私は( ? )じゃないかと思うですね。親先生の信心を1から10まで頂くとこれが順調なんです。せめてこれだけはいうなら生命にかけて、( ? )をするのが( ? )( ? )と歩いておる様な事じゃないかとこう思うです。後々の者はそういう行をせんでもみやすうおかげを受けさせると言うことをね。その今日は間違えてはならないと言う事です。
 なるほど初代が通られたようなの道を通るね、せんでも自分んが病気しとる、せめて( ? )( ? )を通らしてもらおうと、言う風にそれを( ? )のもんだとは言わしません。けれどもそこんところをいわゆる、きょうそこに金光大神のまず帰依が出来る。だから親先生に対するところも帰依が出来る。いや本当から親先生の信心を頂こうとする、その熱願と言った様なものがです。
 阿倍野の若先生の場合にも、宮の陣教会の若先生の場合にも、そういう厳しい先生の信心をです本当に受けて立とうと起き上がられた。そこに値打ちがある。なんか( ? )( ? )しよるごとあるならもう思わなかったちゅう。ほうぅりゃここの信心( ? )と言ったのがこうりゃ淵とひとつに技出来ぬぞと( ? )先生に付いて行ったものと、自分のやはり先生に( ? )じゃというものを目指してね。
 それからなら磨いたとはいえ、( ? )が侵されると言った様な事はなくなるほどしのおかげを頂かれたとこういう。なるほど起きてみれば成程損した者がおかげを受けるという事実を体験していかにゃいけん。そこから親先生取り次ぐとこなるほど親先生任せと言う、言うならば任せきるという、身も心も任せられる先生だなぁ親がもっとわかった時にです、ようするに親と子の信心が交流する。いうならば親先生対するところの帰依が出来たわけであります。
 帰依すると言う事、その帰依すると言う事はです、なるほどなら身も心もあなた任せという事だと言う風に私は思うのです。それから生れて来るおかげが成程みやすいおかげだと言う事です。    空間3分    そこで今日はみやすうおかげが受けられると言う( ? )( ? )というものの側の姿勢と言った様なものがです、いわゆるしっかりしなければいけない。きのう夕方熊本の日奈久教会から電話が掛かってきました。只今から合楽に着かして頂きますからどうぞよろしくと言う事であった。
 ここまで4時間がらかかりますからね。だから丁度8時半か9時ころ過ぎだろうと思うておりました。夜の御祈念を頂き終わったころ、御理解いただき終わっているところに、あちらの奥さんが二人の信者と連れてお礼参拝に参りました。ですから富永先生と言うのは、もう身体を全身に病気を持って、これで生きておられるのが不思議と言う位な状態であります。( ? )の問題がなければ、あのう ( ? )( ? )それで富永先生と言う事で日奈久の教師になられて、そして大変な苦労されてそれで道が開けない。
 そこから合楽の事を聞かれて合楽に参られるようになったのが椛目の時代でございますけれども。7,8年になりますでしょうか。ここに御縁を頂かれて、それからまぁ実意丁寧な本当に毎月必ず拝んだ( ? )と思うて、そういうて一日かかりで参って見える。本当にあのう長い間苦労して、もうそれこそもう本当に( ? )小さのところで布教して、布教所から教会になかなかなれなかった。
 ところろがそういう難儀な中になんかに、あのう家を追い立てられると言う様な事になられたのが、丁度6年くらい前でしょうかね、ここへ移らして頂く前の年位だったですからまだ椛目でしたから。夫婦でもうそれこそ一生懸命の涙を流ながらのお取次ぎでした。もう細々ながらこう布教頂いて6年ですから。もう長い間信心をしておると言った様な教会。ならそれこそお広前ちゅうたらもう本当もうあのう猫の額の様な教会。
 ところが大家さんが大変親切にして下さりょったけれども、最近は非常にその大家さんが冷たくてもう今月いっぱいでここを開けてくれっといわれるという。それがお届けなんですと( ? )言いながら家賃のとどこうった事もないのに。どうした冷たい事を言わんならんじゃろうか( ? )ちゅうたることを( ? )( ? )でていく力もなし。行くところもないのです。と言う様なあのうお届けを夫婦でお願いに見えました。その時に私はお届けさして頂きましたら、丁度あのう雪の生態の雪を頂いた。
 雪を顕微鏡で眺めますとこう幾何学模様のようなね、丁度( ? )( ? )ありながらもう一辺一辺がそういう素晴らしい形であるのに( ? )ですね雪と言うのは。成程雪は冷たい。けれどもとても天地の祖神様の働きというものは、もうそれこそ幾何学模様の様な間違いのない働きでです、( ? )布教所にそういいういいわば起きた時にご修行が始まった。それはもう師走の中頃でした。15日頃でした。
 だから富永先生こりゃあんただけじゃ( ? )せんじゃろうかと思いよるばってん、これは( ? )そんなこと思わんでこりゃ天地の祖神様のもう特別な言うならもうそれこそ、細工は流々仕上げを御覧じろと言われるほどしのおかげが控えておるよと。これを冷たいと言っうたら神様のその働きにどのような( ? )のおかげを頂かなければいけませんとというて、お取次ぎをさして頂いた。
 本当に( ? )( ? )悲しい思いが今度は生き生きとした物語というても神様がこの様にして、えて下さると言う事も。そのころからこの二人兄弟の御信者さん方が、もうそれこそ皆んなが( ? )( ? )信心はもうあるまいと言われる位に( ? )信心を( ? )信心者が御用頂くようになりました。そりゃもう( ? )もう( ? )せんです。
 私はこの前ちょうど安武あのうお参りして来た時なんか、そりゃもうちょっと( ? )だったでしょうか。けさなんか本当に私( ? )( ? )求めて幸せだなっと、思う程しの良い信者です。ただもう親先生のいうてもう具合が悪いから、もうあの親教会にお願いというのが、そのうまぁ口に( ? )すごたるならここに教会じゃないけれども、親先生があげんいいよる。
 いわゆる合楽教会にいっぺんとう、もう合楽教会の先生が言わっしゃる通りの、おかげを頂くきたいといいよるから、( ? )( ? )として( ? )。昨日( ? )たが、その日からお知らせが頂けるようになった、( ? )もうその働きに恐れ入ります。今日は普通のご飯が頂けました。だから奥さんが( ? )けれども、このままなら私も( ? )頂けよいから、なら( ? )参って来ると言うので( ? )一緒に参って来た。
 ( ? )を例えば親を思うと言う親先生のことを思う( ? )の真心と私しゃ一旦お届けをさして頂いても。何と言うでしょうか。もう本当に真心と言うのは素晴らしいばかりと思うばっかりで。で昨日そのことをせっせつとお礼のお届けであると同時に、( ? )いろいろの話がございましたけれどもです。とにかくまぁ一生懸命のおかげね、そういう願いに立たせて頂くと言う事はです、自分の事にならそれこそ断食してからでも、それこそどんな遠かとこでも参ってござるけれども。
 ただ自分が例えて言うと( ? )の足らん時( ? )( ? )て、( ? )沢山( ? )してもろうて、そして( ? )た、そして( ? )そしてお願いしたらまた帰る。うちの( ? )の9時に終わりますから、お食事終わって下がらしてもらってから、そこで暫くお話をさせて頂いた。そうしたところに熊本の松村さんが参って来た。それでまたそれこそ願いに願い( ? )、もうそれこそもう大変なことだったんですけれどもね。
 おかげを受けてもうとにかく( ? )朝から( ? )に参加してくると言うて、昨日は( ? )匂いがしよった。ガソリンスタンドをしとりますから、ちょうどそん時にガソリンの匂いがする。ところがねその自動車の( ? )がこちらの方のを( ? )だしてから、あなたのどちらにお参りでますかっち聞いたら、合楽のちいうたけん向こうまで( ? )入るいうちから、( ? )の方。
 ありゃ私は( ? )合楽教会に参ろうと思いよるけん乗せてってください、はぁよかとこじゃないですよというて乗って行った。もう( ? )( ? )のねあのう信心と言うのは、神様はここということ真っ直ぐなものを感ずるでしょうが。そしてここで出入りをさして頂いておる時( ? )いってから。ちょうどあのう( ? )( ? )から話ししとるもんですから、そこを( ? )( ? )しとったんでしょう。そのところに( ? )してから帰りにはまた( ? )( ? )られた。
 それで私はそのう( ? )参って来て日奈久の石井さん方の言うんですよ。神様のお働きちゃ間違いなかろうが、こげん間違いなかばいね。松村さんがこげんして間違え、あなた方と交流して頂きたいと、帰りに乗せていきたいと言うほどしの間違い働きの中に合楽当たりのもう( ? )。というてあのうこう少しこう回り道になるけどあのお送りさして頂くと言うて、あのうリードして帰る。
 そういう風に間違いじゃないと言う事は、いろいろ信心と言う事を( ? )自分に( ? )のことのために真心がかけられて、一生懸命かけられると言う程しの信心に、そういう願いに神があると言う御理解であったね。だからそのただ我情我欲の願いではなくてです、( ? )( ? )るためにでも( ? )( ? )の和賀心時代の御造営の信心と言うのには、願いそのものに光があるから。
 そこから今度自は然の中に自分自身がその光を受けて、自然になったらとその成り行きの中におかげを受けることが出来ると言う御理解です。ですから私共の信心の小さい信心から、いよいよお育てを頂いてです、着実にあかの他人ににもなる自分の肩にかけるにでも、いうなら( ? )我々の( ? )の信心がいかに( ? )にされるかと言う事で分るでしょう。
 ( ? )と言う事にいかに神様がお喜びになるかと言う事が分かるでしょう。ただ本当に( ? )利よりも( ? )信心。( ? )よりも自分以外のこれからの自分のためにでも、( ? )這うてでも今はそれが大きく社会国家、いま国の国家の事までです。今までのほどしになったらそういう大きな光を受けることが出来る事がわかります。そういう信心のね例えば指針というものを作らせて頂くと言う事がです。
 私は大事じゃないかと思うんです。なるほどそういう行はせんでも、それでも信心がだんだん上達して頂いてです。喜びの生活をさして頂いて、もう本当に合楽の親先生の言わっしゃる通り、さして頂いたら間違いはないと、言う事が( ? )なんかは、もういよいよ分かっただろうと思うんです。こりゃこの前( ? )( ? )素晴らしいんですけれどもね。
 あのう素晴らしい( ? )というのはなかなか出来ないです。何故かというと人間関係かえってくるですね、いうならその人達の秘密の事なんです。本当ですよ。私が皆さんのおかげを受ける話をパットもとにするなら本当にそこから( ? )からしきでもね、それは出来ませんけれども、とにかく熊本からちょいとお礼参り( ? )( ? )のことに( ? )てござる。まるで。
 あした( ? )に大家さんから出して頂こうと言う、そこに合楽行きの御用が( ? )なった。ここが( ? )( ? )からまた熊本( ? )( ? )に久留米の( ? )と言う様なです。おかげの( ? )神様の妙なる( ? )働きの中に信心さして頂くから。いよいよ親先生に帰依が出来ると言う事になるのです。金光大神への本当に帰依が出来ると言う事、そこからいわゆるみやすいおかげが頂けるようになるんですよね。
   どうぞ。